質的データ分析と総称文

言語に関する勉強ノート。正しいかは分からない。

 

自分のアマオケ調査で得られた分析結果の一つは以下の文で表される。

  • マチュアオーケストラ団員は所属楽団を移籍することでそれまでとは違う音楽性に触れ興味を深める。

これは量化を含まない文であり、総称文だと考えられる。総称文の特徴は例外を許す点にある(飯田 2019)。所属楽団を移籍しても興味を深めなかった楽団員や、所属楽団を移籍して興味を深めたがそれは違う音楽性に触れたためではなかった楽団員がいたとしても、この文は真である。

どんな量の例外が許されるかは文によって異なる。

  • 象は鼻が長い。→ 怪我をした象などごく一部が例外として許される
  • 蚊はデング熱を媒介する。→ 大多数の蚊が例外として許される

このため総称文は量を含意しているように見えるが、含意する量が曖昧である。

 

次のようなことを考えた。

質的データ分析の結論として得られるのは総称文ではないか

実際に自分が書いてきた論文ではそうなっている。もちろん、総称文を使わずに量化を含む文を書くこともできる。例えば存在量化をして、以下のように書くこともできる。

  • 所属楽団を移籍することでそれまでとは違う音楽性に触れ興味を深めるアマチュアオーケストラ団員が存在する。

あるいは調査を直接反映した量化子を使うこともできる。

  • 所属楽団を移籍することでそれまでとは違う音楽性に触れ興味を深めるアマチュアオーケストラ団員が3人存在した。

総称文において量の含意が曖昧なことを問題視する立場からは、このように明示的に量化した文を書くことが推奨されている(和泉 2018)。

ただ、質的データ分析を行う研究者は、そもそも量を表したいわけではないと思われる。彼らにとって関心があるのは、「所属楽団を移籍することでそれまでとは違う音楽性に触れ興味を深める」というプロセスを発見することであり、それが「少なくとも一事例存在する」のか「ほとんどの事例で該当する」のかは未知のままに留めている。そのため、量の含意が曖昧だが現象の特徴を表せる総称文を、分析結果として書くことになるのだと思った。

個人的には存在量化をしてもいいと感じるが、存在量化をした途端に、「一事例存在していたからといってだから何なんだ」という small n をめぐる批判と防衛(Small 2009)に巻き込まれてしまうので、わざわざ量化したくないという気持ちも分かる。一方で総称文の意味論は発展途上にあるらしいので、総称文を用いることで質的データ分析がもたらす知見の性質がよく分からないという爆弾を抱え込むことにもなる。

 

上で書いたことが正しいのか確信が持てないけれども、自分としては質的研究の難しさが一つ捉えやすくなったような気がする。

 

参考文献

和泉悠 (2018) 総称文とセクシャルハラスメント. 哲学, 2018(69), 32–43. https://doi.org/10.11439/philosophy.2018.32

Small, M. L. (2009). `How many cases do I need?’: On science and the logic of case selection in field-based research. Ethnography, 10(1), 5–38. https://doi.org/10.1177/1466138108099586